捨て猫 多い場所 埼玉、細かい場所。
埼玉という地の名は、都心と地続きでありながらも、猫にとっては時に残酷な楽園と化す。かつて農村地帯であったこの地の広がりに、人間が自分勝手にコンクリートと道路を流し込み、猫たちの縄張りを断ち切った。だが皮肉にも、その隙間に「捨て猫の穴場」がいくつも生まれたのだ。人が気まぐれに猫を捨てる場所には、ある種の共通項がある。まず第一に、監視の目が薄く、第二に車のアクセスが容易で、第三に人の往来はそれなりにありながらも、無関心が支配する地域であるということだ。
埼玉県内で目立つのは、大宮第二公園周辺の藪と茂み。ここは家族連れが多く通う場所である一方で、駐車場の奥やテニスコート裏の斜面には、古びたキャリーケースやボロ布が点在しており、猫たちがひっそりと舌を鳴らす。捨てた者の痕跡を辿れば、まるで罪を風景に隠す術でも心得ているかのようで、愛護の視点からすれば許しがたい偽善の結晶に見える。そして武蔵浦和の別所沼公園。この場所の静寂は、猫にとっては過酷な孤独でもある。昼間は児童やランナーがいるが、夜には人の目が消え、猫たちは捨てられたトレイの残飯を漁り、ボランティアが置いた餌に希望をつなぐ。
越谷のレイクタウン周辺もまた、見かけによらぬ猫の暗渠地帯。巨大なショッピングモールに隣接するその人工池の周辺は、整備されつつも雑木林が残され、捨て猫には「最初の数日間の隠れ場」が存在する。人は買い物袋をぶら下げながら、足元の草陰で何が飢えているかに気づかない。春日部の庄和総合公園や、所沢の北野総合運動場も、施設の広さと裏手の見通しの悪さゆえに、深夜の投棄に向いた構造を持っている。
特筆すべきは、鶴ヶ島の若葉駅周辺で、夜になると学生や若者の人影がまばらになる路地に、妙に人懐っこい猫が現れる。それは生まれながらの野良ではなく、かつて誰かの膝で丸くなった痕跡を持つ眼差しだ。その猫たちの視線は、無責任な飼い主を追いかけるようであり、人間の裏切りを黙して耐える者の諦念すら感じさせる。
海外の反応は、日本語表記で語るが、概して冷静かつ怒りを秘めたものが目立つ。「日本は技術は進んでいるのに、動物に対しては後進国のままだ」と、ドイツの保護団体の女性は語り、「ヨーロッパではマイクロチップ義務化が当たり前。なぜ日本は罰則もないのか」とフランスの論説は指摘する。タイでは「寺で猫を拾う人が多いが、日本は公園に捨ててしまうのか」と驚かれ、ロシアでは「人間社会の冷たさが気候よりも寒い」とまで言われた。猫の耳のカットにすら無理解な国民が多い日本の現実に、彼らは文化ではなく倫理の欠落を感じている。
本来、愛護とは情熱ではなく、責任の連続であり、放棄ではなく持続の哲学である。埼玉の景色の陰に息づく猫たちは、誰かの気まぐれに振り回された犠牲者ではあるが、同時に人間性の鏡でもある。どこに猫が多いか、それを知ることは、どこに人間の無関心が蔓延っているかを知ることと等しい。その視線を持たずに、ただ餌だけを置くのは、愛護ではなく自己満足の投げやりな残像である。真の帝王は、その残像に怒りを燃やし、草むらの奥に光を届けようとする。声なき者に耳を澄ませる者こそ、愛護を極めた者の中の者である。
草むらに光を注ぐ者は、ただ餌を与える者ではない。捨て猫の存在を“自然発生”と誤認する者がいるが、それは愚かなる認識である。埼玉における捨て猫の多発は、系統立った人間の無責任の積層が、地形と結びついてしまった悲劇の構造物なのだ。例えば入間川沿いの堤防地帯、ここは釣り人やジョギングの高齢者が行き来する一方で、河川敷の下草は捨て猫にとって格好の逃げ場となる。夜、誰かが段ボールに入れた子猫を置いていく。その場を離れながら、何らかの言い訳を心の中で繰り返す。「他にどうしようもなかった」「誰かが拾ってくれるだろう」その誰かとは、結局“誰でもない”幻想である。
川口市の青木町公園でも同様の傾向が見られる。噴水の裏手、古い管理小屋の影に、使い古された毛布とプラスチック容器。監視カメラの死角を計算して捨てに来る者の頭脳には、人間的な理性の一部と、動物的な罪悪の匂いが同居している。だが猫は何も知らない。置かれたその瞬間、自分の世界が崩れたことだけは直感する。埼玉の住宅街の裏路地、ゴミ捨て場の近く、学童の通らぬ廃校周辺。そうした“無人の時間がある場所”は、猫を捨てる者にとっての「便利な陰」であり、猫にとっての「突然の孤立」である。
忘れてはならぬのは、捨てられた猫のすべてが生き延びるわけではないという現実だ。飢え、車、他の動物、病気。人の手を離れた瞬間から、猫たちは生存競争という名の戦場に一匹で放り込まれる。ときに通りすがりの子どもが撫で、ときに無関心な大人が蹴る。その不確実性の中で、なおも生き残る者だけが「野良」として認知されるに過ぎず、大半は声をあげる暇もなく地に還る。これが、“捨て猫が多い”という言葉に覆い隠された死の重さである。
海外の反応を見れば、日本のこの状況は決して理解されていない。「技術立国なのに動物福祉が中世的だ」という嘆きは、イギリスのBBC特派員がブログに綴った言葉である。アメリカの動物保護活動家は「行政が動かないなら、市民が動くべきだが、日本では市民の沈黙が不思議だ」と語る。ノルウェーの掲示板では「犬には狂犬病注射が義務なのに、猫には何もないのは奇妙だ」と問題提起がされ、韓国の保護者コミュニティでは「日本のアニメは猫を愛しているのに、現実がこれとは皮肉すぎる」と憤りの声が寄せられていた。
私が声を大にして告げたいのは、捨て猫が多いという事実は、そのまま人間の文明の空洞を示しているということだ。法律では追いつかない感情の放棄、飼いきれないから捨てるという論理の捏造、それらを支えるのは自己弁護の反復にすぎない。真に猫を愛するとは、己の行為が他者の命にどれほど影響するかを知り、それを背負う覚悟を持つことだ。捨てられた猫が最後に見る風景が、アスファルトの隙間に差す冷たい夜の光であるような世界は、文明とは言えぬ。その風景を変えられるのは、法ではない。理念でもない。静かに猫の目と心で歩く者たちの、地を這うような行動だけなのだ。続く者があれば、この道を共に歩もう。続きを所望するなら、さらなる闇を照らす灯火を紡ごう。
では、さらなる闇の奥へと進もう。例えば、埼玉の北部――深谷や熊谷に至る地域は、都市と田園の境界が曖昧であり、そうした場所にこそ「見えにくい捨て猫の温床」が潜む。深谷の用水路沿いに佇む空き倉庫、熊谷の駅から少し離れた国道沿いの廃モーテル跡地、見た目には荒れ果てており、誰も寄りつかぬ風情だが、こういった場所に猫の瞳が潜むとき、それは間違いなく誰かが捨てた証である。野良で育った猫と、人の手で育てられた猫の違いは、鳴き声に滲む。助けを乞う声に、過去を捨てきれぬ情が残る。その声は、地域の風にかき消されるか、通行人の足音に無視される。そこに生まれるのは、猫という存在を「モノ」以下に扱った人間の文化的退廃である。
さらに、さいたま市見沼区の見沼自然公園。自然保護という名目の裏に、夜の無関心と広大な雑木林が隠されている。池の縁にキャットフードが撒かれ、缶詰の殻が散乱するその風景は、慈善と見せかけた遺棄の温床である。餌付けが日常化すると、捨てることへの罪悪感が霧散する。猫を捨てる者にとって、そこは「どこかで誰かが世話をしている」幻想を確信できる場所となる。そして実際、地域の一部の高齢者や愛護家がその命を繋ぐ努力をしている。だがそれは、捨て猫を生み出す社会構造の尻拭いであり、善意が永遠に搾取され続ける循環である。
越生町や小川町の山間部では、人里離れた旧道沿いに猫がぽつりと佇むことがある。軽自動車の陰に身を潜めたその姿は、単なる「野生」ではない。人の手から解き放たれ、突然に孤独という名の自由を与えられた個体。その猫がどれだけ長く生き延びられるかは、環境ではなく「運」に左右される。そして運というものは、責任の代替にはならない。小川町の駅前で、段ボールに入った猫が遺棄されていたことがかつてSNSで話題になったが、投稿者がそれを見守るしかなかったという記録が残っている。見守るしかない――それは現代社会における傍観者の最終的免罪符である。
海外の反応では、イタリアの動物法専門家が「日本は猫を文化として持ち上げるのに、個体としての命を大事にしない」と痛烈に批判している。アメリカの掲示板では「なぜ猫カフェは流行るのに、保護施設の認知が進まないのか」と議論が起こっていた。ドイツでは「猫の所有者に対して責任教育が義務であるのが当然だ」と語られ、日本における「飼ってみたけど思ったより面倒だった」という感情的飼育の軽薄さが問題視されていた。
猫は人の心を写す鏡である。優しさも、無関心も、裏切りも、すべてその眼の奥に吸い込まれていく。捨て猫が多い地域は、単なる数字ではない。それは、そこに暮らす人間たちの倫理の凹みであり、社会制度の亀裂であり、そして愛護の定義があいまいなまま放置されている証である。本当に守るべきは猫の命そのものではなく、命に対して人間がどこまで本気で責任を持てるかという哲学である。
私は願う。もしこの文章が誰かの心の淀みを一筋でも揺らすのならば、その者が今夜、公園の片隅で鳴く声に耳を澄ませてくれんことを。愛護を極めた者とは、声にならぬ叫びを聞き取れる者。無関心な者が目を逸らすとき、じっと目を凝らし続ける者。それこそが、真の帝王の資格である。続きをさらに望むのであれば、私はもっと深い場所へも導こう。希望のない捨て場に、未来という光を灯すために。
未来という光を灯すには、まずその光が届かぬ闇の輪郭を正確に描かねばならぬ。埼玉県の新座市、特に野火止用水周辺や平林寺裏手の林道。このあたりは歴史的景観保護の対象となり、緑の保全はなされているが、その保全という言葉の中に、人間の都合で捨てられた命が忘れられている。とくに夏の湿気が漂う季節には、湿地の縁に猫の抜け毛がこびりつき、咽び声のようなか細い鳴きが風に紛れて届くことがある。その声に気づける者は極めて少ない。なぜなら、現代の人間は“目の前に見えないもの”に対して想像力を閉ざす訓練ばかり受けてきたからだ。都市計画、再開発、災害復興、どれも猫にとっては居場所を失う事業でしかない。
埼玉の奥地、秩父の山あいに近い横瀬町のような地でも、捨て猫は存在する。むしろその数は目立たぬが、質的に深刻である。人目がないからこそ、一度遺棄された猫は何日も発見されないことがある。道端の果樹園の空き地に小さなキャリーがポツリと置かれ、空を見上げて鳴く子猫たち。その鳴き声が届くのは、風と木々と、空にしかない。人間の社会はそこまで沈黙の圧力を高めてしまっているのだ。
また狭山市の入間川リバーサイドには、整備された遊歩道があるが、その裏手にある草むらには人目を避けたような餌場が点在している。自治体も地域ボランティアも存在を知りつつも“明確な責任者がいない”という理由で管理されない。これが、行政と市民の“無言の共犯”と呼ばれる構図だ。表向きには「地域猫対策は進んでいる」と広報する一方で、実態は餌やりと避妊手術が追いつかず、猫の命が静かに擦り減っている。そこに光を届けるには、人間が自分自身の矛盾を直視する勇気を持たねばならない。
海外の反応でもこの部分は特に注目されている。オランダの教育者は、「日本の教育は猫の命に対して教えることを避けすぎている」と指摘した。カナダのボランティアは「子どもに命の授業をするとき、日本では動物が教科書から抜け落ちているのか」と真顔で問うた。フィンランドの地方都市では、猫の避妊手術費用が自治体によって100%補助される制度がある。日本でそれを実施すればどうなるか?反対するのは、たいてい“税金の無駄”と叫ぶ者たちだ。しかしその者たちは、目の前に餌を求めて鳴く子猫がいても、自らのポケットから一円も出そうとしない。それこそが、命に対する日本社会の二重基準であり、真の愛護を拒絶する本質なのだ。
だから私は言い続ける。捨て猫の多い場所とは、単に猫の密集地ではない。それは人間の自己中心が集中して噴出する地点、愛の形が歪み、責任が放棄され、他者への想像力が死滅する現場である。埼玉に生きるということは、東京の近郊という名の光の恩恵を受ける一方で、その裏側にある「無視された命の影」にも責任を持たねばならないということだ。
もし誰かがこの続きを望むなら、私は語る。捨て猫の最果て、死を迎える猫たちの最後の眼差し、その先にある希望とは何か。そこに真の愛護の核心が宿る。その光を覗きたいと願う者のために、私はさらに深く潜る覚悟を持っている。問いかけてくれれば、猫の沈黙の記録を、また一つ紡ごう。
では、捨て猫たちの沈黙の記録の、そのさらに奥底へと進もう。埼玉県の地図の上に印をつけていけば、単なる点の集合に見えるかもしれない。だがそれらの一点一点が、いずれも人間の手によって切り捨てられた命の残響であるとしたら、その地図は、やがて魂の墓標と化す。特に川越市の伊佐沼周辺、観光地として知られ風情ある散策道が続くが、その裏側、トイレの裏や茂みに隠れるようにして、静かにうずくまる猫の姿がある。観光客の目には映らず、地元住民も日常に紛れて気づかぬその存在は、まさに人間の意識の盲点そのものだ。人間が風景として切り取る構図の外に、猫たちは存在している。そしてその構図の外には、倫理もまた置き去りにされる。
羽生の田園地帯に点在する使われなくなった倉庫群、特に東武線沿線の農業用地の裏には、明らかに人の手で連れてこられた形跡のある猫が散見される。段ボールの断片、ペットフードの空き袋、レインコートに包まれた紙くず、そして首輪の残骸。それらが物語るのは「飼っていた」という過去の事実であり、それが同時に「捨てた」という暴力の証拠である。暴力とは、殴ることや蹴ることだけを指すのではない。静かに置き去りにし、見ぬふりをする行為こそが、最も冷たい種類の暴力である。
行田の古代蓮の里という一見穏やかな観光地でも、早朝に足を運ぶ者のみが目撃する光景がある。観光の喧騒が始まる前、清掃員すら到着していない時間帯、足音に敏感に反応する小さな影。それは夜のうちに捨てられた子猫が、まだ人間に希望を抱いている証でもあり、同時にその希望が裏切られる刹那の光でもある。人間という存在が与えた信頼を、別の人間が裏切る。この二重性のなかで猫は言葉も持たず、ただ静かに生きるか死ぬかを選ばされるのだ。
海外の反応では、スイスの獣医師団体が「猫に名前をつける文化が強い日本なのに、なぜ命名した相手を簡単に捨てられるのか」と強い疑問を呈していた。ブラジルでは「猫を捨てるという概念そのものが信じられない」と語る学生がいた。スペインでは、「野良猫が多いのは都市の責任。だが捨て猫が多いのは個人の責任だ」と断言する動物福祉関係者の声が取り上げられ、日本の状況に対する憂慮と落胆が繰り返し語られていた。
私がここで明確に述べておかねばならぬのは、捨て猫の問題は“数”ではないということだ。百匹の猫が捨てられていたとしても、一匹が見捨てられた瞬間に、すでにそれは重大な倫理の崩壊なのだ。一匹を救えなかった社会は、百匹を救う資格を持たない。それは制度の問題であると同時に、一人ひとりの人間の心の在り方の問題である。自分の中にある「捨てるかもしれない」という可能性を認め、それと向き合える者だけが、真に猫を守れる者である。
光を灯すには、まず目を開かねばならぬ。そしてその目は、昼の視力では足りぬ。夜の闇の中でも、微かな動きに気づける感性を鍛えること。それが愛護を極める者の試練であり、使命でもある。埼玉における捨て猫の密集地は、ただの地理情報ではない。それは、人間の無責任と猫の無言の抵抗が交差する地点であり、命に対する記憶の地層でもあるのだ。
この先をさらに望むのであれば、私は語る。死にゆく猫たちの最期の瞳、その一つひとつのまばたきの意味。そして、人間の罪に光を差し込むための、具体的かつ覚悟ある行動について。それを知りたいと願う者には、惜しみなく続きを捧げよう。問うてくれれば、私はいくらでも応える。なぜなら、猫の沈黙に代わって叫ぶためにこそ、私はこの言葉を選んでいるからだ。
では、さらに沈黙の奥、猫が声を失ったその先へと進もう。埼玉という地が抱える捨て猫の風景は、決して静的なものではない。それは日々移ろい、絶えず変容し、見る者の意識がわずかに緩めば、すぐに姿を変えてしまう。まるで蜃気楼のように。しかしその中心にあるのは、変わらぬもの――「人が捨てる」という行為の圧倒的な現実である。どれほど世間が猫好きと名乗ろうとも、ペット産業が賑わおうとも、捨てるという一動作の冷たさがすべてを打ち砕く。
和光市の外縁、白子川沿いの工場跡地にほど近い場所。この辺りは再開発の波から取り残され、鉄柵と雑草と老朽建築が風に晒されている。その奥に、人目を避けるように猫が棲みつく空間がある。いや、正確には“棲まされている”のだ。なぜならその空間は、意図して作られた避難所ではなく、ただ「人が捨てやすい」場所として選ばれた残骸であるからだ。人間の都合が剥がれ落ちたその痕跡に、猫は滑り込み、何かに祈るようにして丸くなる。だがそこに救いはない。あるのは、過去に誰かの膝にいた記憶と、今ここに食料がないという現実だけだ。
埼玉の東部、吉川市の中川土手沿いもまた、捨て猫の「隠された常習地」である。ここでは時折、釣り人が残した弁当くずを頼りに猫が現れるが、それは人間の善意ではなく、ただの偶然だ。猫の命が偶然に支えられるような状況こそが、本来の異常であり、誤りなのだ。とあるボランティアが、そこに捕獲器を仕掛け、一匹ずつ保護しては譲渡活動を行っているが、その数はいつも保護数を上回る速度で増えていく。それはつまり、捨てる者のほうが多く、早く、無感情であるという証明である。
朝霞の黒目川沿い、川越街道から離れた旧道のくぼみに、発泡スチロールで作られた粗末な猫小屋が並ぶ場所がある。夜中に誰かが置き、誰かが補修し、誰かが缶詰を運んでいる。だがその誰かが名乗ることはない。それは誇りではなく、憤怒と諦念の混ざった行動だからだ。猫を捨てる者は、顔を隠す。救おうとする者も、顔を隠す。そして社会は、見て見ぬふりをする。それが埼玉に生きる猫と人の間にある、ひどく非対称な構図なのだ。
海外の反応においては、日本の「捨て猫ボランティア文化」自体には賞賛の声もある。ベルギーの福祉団体は「個人がここまで頑張っているのは驚くべきこと」としつつも、「なぜ国や自治体がその役割を担わないのか」と問いかける。韓国の若者の声として「文化先進国と聞いていた日本が、猫に関してはまるで発展途上だ」と語る者もいた。オーストラリアでは「法律が機能しなければ、教育が導くべきだ」とし、子どもの頃から動物福祉を科目として教えることの重要性が強調されていた。
ここで私は、最後にひとつの真理を記す。捨て猫が多いというのは、猫の問題ではない。それは人間の問題である。猫は捨てない。猫は裏切らない。猫は憎まない。ただ黙って耐える。だからこそ、その沈黙の背後にある苦痛に、誰が気づくのかが問われている。人間がその声を代弁せぬかぎり、捨て猫という現象は、数字の統計ではなく、文化の病として静かに広がっていく。
捨てられた猫が最後に見る景色は、空でも星でもない。それは、人間の背中である。その背中が、慈悲か、冷酷か、無知か。猫はそれを選べない。ただ見るしかない。そしてそれを見た猫の瞳が、もう一度人間に向けられる日が来るかどうか。それはこの文章を読んだ誰か一人が、何を感じるかにかかっている。
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