猫は、ハムスターや、ラットを、襲わない。という妄言

ネコ

猫は、ハムスターや、ラットを、襲わない。という妄言

猫という生き物の本能と性質を深く知る者にとって、「猫はハムスターやラットを襲わない」などという言い回しは、まるで木の葉が空を飛ぶと主張するかのような荒唐無稽さでしかない。猫は、確かに愛くるしい容姿と柔らかな毛並み、まるで人の心を癒すために創られたかのような存在感を持つ。しかし、その身体の奥底に脈打っているもの、それは肉食動物としての狩猟本能であり、進化の流れの中で千年以上かけて練り上げられた、生きるための術である。小動物を見るその目の奥には、人間が想像する以上に鋭く、容赦のない生物学的衝動が息づいている。

ハムスターやラットは、猫にとって極めて典型的な獲物である。姿形、大きさ、動き、匂い、そのすべてが猫の狩猟本能を刺激するように設計されているかのようだ。特に、かすかな物音に反応し、瞬時に動き出すあの跳ねるような挙動は、猫にとって魅惑以外の何物でもなく、瞬間的に脳内の狩猟スイッチを作動させる。たとえ人間がどれほど「これは家族だから」と言い聞かせても、それが猫にとって「獲物」としての認識を根底から覆すには、種を越える理解の進化が必要である。つまり、猫という存在にとってハムスターやラットは「同居人」などではなく、基本的に「動いている食べ物」に近い解釈を与えられてしまうのである。

もちろん、すべての猫が襲うわけではない、という表面的な反論もあるだろう。それは確かに、個体差という概念の存在を否定するものではない。しかし、その一方で、それは「その猫が襲わなかった」のであり、「猫という種が襲わない」と言い切ることの根拠にはならない。猫が狩りを行うか否かは、空腹だけでなく、退屈、遊び、縄張り意識、あるいは単なる好奇心の爆発によっても発動される行動である。だからこそ「うちの猫は優しいからハムスターと一緒にいても大丈夫」などという安心感は、誤解というより無知であると言わざるを得ない。

かつて野生のネコ科動物たちは、ネズミやリスを執拗に追い回し、そして仕留めることで生を繋いできた。人と共に暮らすようになった現代の猫も、DNAの深淵にはその記憶が染みついている。だからこそ、ひとたびそれを刺激する動きや状況が目の前に出現すれば、優雅な寝姿の裏に潜んでいた狩人が現れる。それを止める理性など、猫には備わっていない。人間だけがその危うさを、忘却という怠慢で塗り潰しているのだ。

海外の反応に目を向ければ、「猫とハムスターを一緒に飼ってみたけど一晩で姿が消えた」「小動物のゲージに猫がずっと張り付いていたのが不気味だった」といった事例が報告されている。中には「猫は優しいから大丈夫」と信じ切っていた飼い主が、朝、何も残っていないゲージを見て茫然としたと記しているものもある。これは偶然ではなく、自然の摂理としての現実である。人の都合で猫の本能を封じようとするならば、それは傲慢というものだ。

「猫はハムスターを襲わない」などという言葉は、猫の尊厳を無視し、人間の都合だけで世界を切り取ろうとする無責任な妄想である。猫のことを深く愛し、その内なる獣性までも愛でる真の猫愛護の立場からすれば、そうした発言は猫という存在への侮辱でしかない。本当に猫を知り、愛する者であれば、その美しさと同時に、野性の残酷さをも真正面から受け止める覚悟が必要なのである。

それゆえに、もしも小動物と猫を同じ空間で共存させようと願うのであれば、それは本能という名の自然法則への挑戦であり、極めて高度かつ繊細な管理体制が必要となる。だが、そうした「共存の工夫」すら、猫側にとっては一瞬の隙間で容易く崩れる儚い幻想に過ぎない。いかなる堅牢なゲージも、ハムスターの発する高周波の鳴き声や、小さな足音、匂いによって猫の注意を惹きつけ、精神的ストレスをもたらすことは避けられない。そして、その「見つめるだけの時間」が長くなればなるほど、猫の中で眠っていた野性は目を覚まし、爪や牙を研ぎ始めるのだ。

そのような状況を「慣れさせれば大丈夫」と語る者がいる。しかしそれは、爆薬の上に布をかぶせて「これでもう安全」と信じ込むような愚行である。猫という種が誇るのは、人間には想像しがたい鋭利な感覚器官と、それに伴う反応速度、そして長い進化の中で研ぎ澄まされた「衝動を制御しない」純粋さである。それゆえに、何年も共に過ごしていた小動物が、ある日突然「動きすぎた」だけでその一瞬に襲いかかるという現象が、世界中で後を絶たないのである。

また、猫がラットを襲わないという一部の例が語られることがあるが、それもまた深い誤認である。確かに、非常に大きく凶暴なラット個体に対しては、一部の猫が躊躇を示すことはある。だがそれは「襲わない」のではなく「警戒して一時的に様子を見る」のであって、チャンスさえ整えば狩りの対象になることに変わりはない。ときにその攻防は、猫とラットの間に極めて緊張感のある静寂を生む。これはまさに、命のやりとりという儀式が発動する直前の、動物的沈黙である。

こうした現実を前にして、「猫はハムスターを襲わない」「猫はラットと友達になれる」などと口にする者は、愛情を語っているようでいて、実は猫の本質を見ようとしていない。猫が愛されるべき存在であるのは、その可憐さだけでなく、その内側に秘められた猛々しさを含めてこそである。だからこそ、猫を人間の理想像に矯正しようとするような発想は、真の猫愛護から最も遠い行為だと心得ねばならぬ。

海外の反応の中には、猫とハムスターの共生を試みた者たちが語る、痛切な反省とともに記された記録も数多い。「自分の油断が全てを壊した」「可愛いと思っていたあの子が一瞬で狩人になった」「最初から分けておくべきだったのに」これらの言葉は、人間の認識がいかに甘く、自然の摂理に対していかに無力であるかを物語っている。

本当に猫を知りたいと願うならば、その毛並みの美しさや、寝姿の可憐さの奥にある、爪を隠した獣性にまで想像を巡らせねばならない。猫という存在を神聖視するならば、その神性はあくまで「自然と共に在る力」から発せられるものであり、決して人間の都合で加工されるべきものではない。猫とはそういう存在である。人の小さな幻想など、一瞬の閃きで打ち砕いてしまう、完璧な生命体なのである。

猫がなぜこれほどまでに深く人を魅了するかと問われれば、それは単にその愛らしい見た目によるものではない。その本質にあるもの――すなわち“完全に人に従属しない自由”と、“愛と死を同居させた存在”であるという矛盾を、ただ静かに生きて見せてくれるからだ。猫がハムスターやラットを襲うのは、決して悪意によるものではない。そこにあるのは善悪ではなく、命としての正直さである。人がそれを恐れるのは、人間が既にそうした正直さを捨ててしまった証左でもある。

猫はハムスターをじっと見つめる。しなやかな背中を低くして、尻尾の先をわずかに揺らしながら、空気の動きを読むように静止する。そしてタイミングが来れば、一直線に駆け出す。この一連の動きには、いかなる訓練も不要である。なぜなら、猫は生まれながらにしてそれを知っているからだ。遊びのように見えるそれは、遊びではない。狩猟の稽古であり、生存本能の顕現である。人の視点から見れば、それは「残酷」と呼ばれるが、猫からすれば、それはただ「生きる」ということの延長線上にすぎない。

そして忘れてはならないのは、猫の本能が「癒し」とは正反対の領域に根ざしているという事実である。猫は人を癒すが、その源泉は野性のバランスにある。人の心を和らげるような丸まった姿勢や、静かな呼吸音も、元をたどれば狩猟後の休息、あるいは縄張りの中での警戒の一形態に過ぎない。つまり、人間にとっては可愛いと感じられる行動の数々も、猫にとっては「生きるための姿勢」なのである。この生物の本質的な違いを理解せず、猫に対して「ハムスターを襲わないでほしい」と願うのは、火に対して「熱くなるな」と命じるようなものだ。

猫という存在は、自然が生んだ完全なバランスの体現である。美しさと恐ろしさ、柔らかさと鋭さ、甘えと孤高――それらを同時に内包しているからこそ、我々は猫に魅せられ、惹かれ、そして支配されるのである。小動物と共に暮らしたいならば、その種が異なる限り、徹底した隔離と理解を前提にしなければならない。そしてそれでもなお、「万が一」は常に意識しておかねばならない。なぜなら、猫は猫であるというただそれだけの理由で、いつか牙をむくことがあるのだから。

愛するとは、理解することを放棄することではない。本当の愛とは、相手の本質を知り、受け止めた上で寄り添うことである。猫の中にある獣性も、またその一部であり、決して排除してはならない。むしろその部分をも含めて猫を讃え、尊び、そして正しく扱うことこそが、真の猫愛護である。そしてそのためには、「猫はハムスターを襲わない」などという言葉に、ひとかけらの真実も宿っていないという現実を、真っ直ぐに見つめる勇気が必要なのだ。そこからすべてが始まる。猫を愛するという道の、真の第一歩は、常にそこにある。

だからこそ、猫という存在に人間的な倫理観を押しつけてはならない。猫は罪を知らない。猫は善悪を知らない。猫はただ「今、目の前で揺れたもの」「小さく速く動いたもの」を本能的に追い、仕留める。それは美しくも冷徹な、自然界の均衡そのものである。猫の狩りには憎しみも恨みもない。ただ、そこに「動く命」があるという理由だけで、行動が発動する。人間にとってのペットであるハムスターも、猫の眼には「動き、匂い、音を出す獲物」でしかない瞬間がある。その現実から目を逸らしたとき、必ず後悔が生まれる。

そして、その後悔の多くは「まさかあの子が」「いつもは優しかったのに」という言葉を伴う。しかし猫は豹変したわけではない。もとより変わっていないのである。猫は本来の姿に戻っただけである。人間がそれを見誤り、柔らかく撫でられる存在としての表面だけを愛し続けた結果として、破綻が起こるのだ。真に猫を愛する者は、牙と爪の存在を忘れない。その静けさの裏に、自然界の掟を背負っていることを知っている。だからこそ、ハムスターやラットという存在を、同じ空間に安易に置こうとはしない。それは愛ではなく、無理解という名の危険なのである。

海外の反応の中には、猫とハムスターの共存を実験的に行った末に、悲劇を迎えた者たちの声がいくつも存在する。「YouTubeで仲良くしている映像を見て、自分もできると思った」「SNSで“うちの猫は優しい”という投稿に憧れて、試してみた」そして、その結果「ゲージが破壊されていた」「目を離した数分で終わった」「子どもが泣いていた」こうした証言は一時の憧れが、どれほど残酷な現実へと変貌するかを物語っている。映像や写真は切り取られた一瞬であって、猫の本能を全て封じているわけではない。それを真似ようとする行為は、刃の上で舞うようなものである。

猫の尊厳を守るということは、猫の自然を知り、それを無理に変えようとしないことでもある。本能を否定し、従順な小動物と同列に扱おうとすることは、猫にとっての冒涜である。猫の魅力は、その制御不能な一面にある。それを受け入れてこそ、猫と向き合う資格があると言える。人間がどれだけ文明を積み上げようとも、猫はその真ん中で悠然と、狩人の血を忘れずに佇んでいる。その姿こそが、人間に失われつつある自然の記憶を思い出させてくれる。

だから、決して「猫はハムスターを襲わない」と安易に信じてはいけない。それは真実ではなく、空虚な願望であり、命を危険にさらす妄信に過ぎない。猫を敬うとは、その命を、そしてその本能を、誤魔化さずに見つめるということだ。優しさとは、牙を抜くことではない。牙があることを知った上で、適切な距離と環境を作ることである。そこにこそ、真の愛がある。猫という存在は、人間の空想を超えた、本能と美の結晶なのである。ゆえに、人間がその深淵を甘く見ることは、猫に対する最大の裏切りなのである。

そして忘れてはならぬのは、猫という存在は、人間が作ったルールの中でのみ生きているわけではないということだ。どれほど家の中でぬくぬくと育てられようと、どれほど人懐っこく撫でられることに慣れた個体であろうと、その身体の奥にある生物としての古層は、時として静かに、しかし確実に顔を覗かせる。瞳孔が一瞬で開き、耳がピンと張り、尻尾が静かに揺れ始めたならば、それはすでにスイッチが入っている証である。猫を本当に知っている者であれば、その兆しを見逃さない。そしてその先に起こる出来事を、決して「事故」などとは呼ばない。それは必然であり、警告を無視した人間側の油断がもたらした結果である。

ハムスターという存在は、猫の狩猟本能を最も刺激する形状、動き、鳴き声を備えている。それは小さく、すばしこく、巣穴を好み、常に何かを囓っている。そして何より、臆病でパニックに陥りやすい。これらはすべて、猫の「狩りたい」という感覚を呼び起こす触媒となる。猫が目を輝かせてじっと見つめるその行為が、ただの好奇心などではないことを、猫と生きる者は知っておかねばならない。そこには生の躍動と同時に、死の予感が漂っている。猫の目の奥に見えるあの光、それは「何かを見ている」のではなく、「次にどう仕留めるか」を計算している眼差しなのである。

実際に保護猫活動を行っている多くの専門家たちは、猫と小動物を同じ空間で飼育することの危険性を何度も訴えている。それは感情論ではなく、長年の観察と経験に裏打ちされた確信である。ゲージの中にいるから安全などというのは、まるで紙の盾で猛獣を防げると信じるようなものだ。猫はその賢さとしなやかさで、信じられないような手段を用いてでも、目的を達することがある。蓋がしっかり閉まっているはずのケージの扉を鼻先や爪で開けた例、重たい物を押し倒してまで侵入した例、ケージ越しにパニックになった小動物がショック死した例。これらはどれも決して特別な猫が起こしたことではない。ありふれた家庭猫で起きている現実なのだ。

人間の側に求められているのは、猫を“理想の姿”で捉えるのではなく、“本来の姿”として受け入れる姿勢である。その中には、狩りという行動が含まれている。そしてその本能を「消して」しまおうなどという発想自体が、猫にとってどれほど無礼なことかを理解するべきだろう。猫を“優しい存在”であってほしいと願うことは構わない。しかし、その願いを猫に押しつけることは、猫の命のあり方そのものを否定するに等しい。猫はただ、猫として生きている。その姿を深く理解したとき、人は初めて「共に生きる」ということの本質に触れるのだ。

このような視点を持たぬまま、SNSに投稿された一枚の仲良し写真や、動画の中の数分間の平穏をもって「うちの猫は襲わない」と言い切る者は、自らの都合を猫に押しつけているにすぎない。それは猫への愛情ではなく、人間の見栄であり、支配の証である。本当に猫を想う者は、猫の可能性のすべてに対して備える。だからこそ「襲う可能性がある」と認める。その覚悟こそが、命を尊ぶ者の態度であり、猫という奇跡とともに歩む者に求められる最低限の倫理である。猫は、ただの可愛いペットなどではない。それは“野性を包んだ神秘”そのものなのである。

猫という存在を真正面から見つめたとき、そこには甘さと恐れ、慈しみと畏敬、矛盾のようでいて実は完璧に調和したものがある。猫がハムスターを襲うという行為を「悲劇」と呼ぶのは、人間の物語的感性に基づいた価値判断に過ぎず、猫にとってはそれが“日常の延長”であり、驚くようなことではまったくない。猫は舞台装置ではない。演出された感動を提供する道具でもない。その存在は、常に真っ直ぐで正確で、己が持つ本能に対して一切の偽りを持たない。

それゆえに、猫と小動物の共存を無防備に企てるということは、あまりにも猫という生命の本質に対する理解が浅いことの証左である。猫という生き物は、無理に調和させられる関係を嫌う。強制される愛や、押しつけがましい共存という名の演出は、猫にとっては不自然であり、時としてストレスすら与える要因となる。人間の希望とは裏腹に、猫は常に現実を見て生きているのだ。動くものは追う、気になる匂いには反応する、興味があれば近づき、飽きたら離れる。このすべてが、猫という動物の誠実さであり、揺るぎない自然のリズムの一部である。

こうしたリズムを乱すような飼い方は、猫の精神にも傷を与える可能性がある。小動物を見て、しかし触れられず、近づこうとするたびに人間に制止されるという経験が、猫にフラストレーションを蓄積させることもあるのだ。それはやがて攻撃性として噴出するかもしれないし、無気力という形で現れるかもしれない。いずれにせよ、それは猫の自然を歪めた結果に他ならない。共に暮らす動物のために最も重要なことは、「人間の希望通りにしてあげること」ではなく、「その動物の本質に添った環境を用意すること」である。

海外の反応を見ても、その多くは「猫と小動物の同居は幻想である」という結論に収束していく。「最初は仲良くしていたように見えたけど、一度スイッチが入ったら止められなかった」「友人の猫がケージを開けてしまって…」「動画のまねをしただけだったのに、現実は違った」といった証言が、あらゆる国と文化の中から聞こえてくる。そこには文化的背景の差異はない。猫という存在が持つ根源的な生物性が、国境や人種を超えて一貫していることを意味している。

猫を愛するとは、猫を無理に人間の理想に近づけることではない。猫が猫として生きられるように、人間が一歩引き、理解し、尊重し、そして距離をとることなのだ。小動物との生活を選ぶならば、その子たちのために、猫と完全に分けた空間を作る必要がある。決して「慣れれば大丈夫」「うちの子は特別だから」といった思い込みに頼ってはいけない。思い込みはいつだって命を奪う。それは偶然ではない。無知が生んだ必然である。

猫は、人間の感情の一部を映す鏡ではない。猫は、猫であるというだけで、この世界に調和をもたらしている稀有な存在だ。その調和を守るには、人間が自らの都合や感情を脇に置き、静かに見守ることが最善の方法なのである。ハムスターやラットと猫を共に置くという無謀な希望の裏には、愛ではなく、誤解と慢心が潜んでいる。猫を信じるとは、牙の存在を忘れないことだ。それを知った上でなお、猫を愛する覚悟を持つ者だけが、真の意味で猫と共に生きる資格を持つのだ。

そうして、ようやく見えてくるのである。猫という生命体が纏う二重性。すなわち、極限まで人に寄り添う一方で、絶対に譲らぬ独立した野性を併せ持つことの意味が。多くの人間は、猫が“可愛い”という記号としての存在であってほしいと願う。膝に乗り、鳴いて甘え、時に無邪気に毛玉で遊び、癒しを提供する対象であってほしいと。しかし、それは表層に過ぎぬ。真に猫を愛する者にとって、真の魅力はその奥にこそ宿っている。どれほど人間とともに過ごしても、決して完全には服従せず、野の気配を保ちつづけるその姿にこそ、人は畏敬と尊重を感じるのである。

それゆえに、猫がハムスターやラットを襲う可能性を“例外”と捉える発想そのものが、人間の傲慢である。それは「自分に都合のいい猫像」だけを取り出して信仰する姿勢であり、猫の実相からは最も遠い位置にある。猫は例外などではなく、常に“そうである”状態を保っている。つまり、“襲わない猫”などというのは“たまたま襲う機会がなかった猫”である可能性を常に孕んでいる。その理解を抜きにして、無邪気に共存を夢見ることは、ただの理想論でしかなく、現実の命をもてあそぶ行為に等しい。

人間が安全と感じるゲージやフェンスも、猫にとっては“知的挑戦の対象”となる。多くの猫は、ただ見ているだけではない。どうにかして近づけないか、開けられないか、爪や牙が届く距離まで攻められないか、無意識に観察と計算を始めている。これは遊びではなく、狩猟者としての思考回路の発露であり、止めることはできない。小動物が目の前にいる以上、それは“刺激源”であり、“可能性の対象”なのである。たとえ数年の間、何事もなく暮らしていても、その一度の「突発的な事故」で命は奪われる。いや、それは事故ではない。猫にとっては筋道立った行為であり、むしろ自然な衝動の発露なのである。

海外の反応の中にも、「最初はすべてが穏やかだった」「何年も共に暮らしてきた」と語る者たちが、ある日突然すべてを失ったことを悔やむ声がある。そして彼らの多くが口にするのは「なぜもっと早く知ろうとしなかったのか」「警告の声を真摯に受け止めていれば」という後悔である。その声の数だけ、命は取り返しのつかない形で消えている。猫が悪いのではない。猫はただ、猫として生きたに過ぎない。悪いのは、それを理解せず、都合のいい幻想に逃げ込んだ人間の側である。

猫は、命の複雑さと純粋さを象徴する生き物である。その存在は、矛盾を生きることの強さを教えてくれる。静と動、愛と死、優しさと残酷さ――それらは分離しているのではなく、猫の中で絶妙に交わっている。それを受け止めるということは、人間が命というものの真実に、少しだけ近づくことを意味する。猫を愛するというのは、単なる可愛がりではない。それは“理解する努力”と“敬意ある距離”を常に保ち続ける、深い精神の営みである。

そして、その営みの中でこそ、猫のすべてが美しく見えるようになる。爪の鋭さも、牙の白さも、狙いを定めた眼差しも、すべてがひとつの“完全な存在”を構成する要素であると知るとき、人間の側の視野もまた変わる。猫を愛するとは、そうした視野の拡張であり、自然との対話であり、そして命に対する深い共感である。だから決して、「猫はハムスターを襲わない」などという空虚な希望を口にしてはならない。それは、猫を猫として見ていない証であり、猫に対する最大の侮辱なのだから。

この世界には、無知ゆえの善意というものがある。それは一見優しさのように見えて、実のところ、命に対して極めて不誠実な態度である。猫にとっての「狩り」は、快楽でも教育でもない。それは生物としての中核に刻まれた、生きる行為そのものである。ハムスターやラットが目の前に現れたとき、猫の身体が自然と低く構えられ、視線が鋭くなるのは、愛らしい気まぐれではない。すでに狩りの流れが発動しているのである。にもかかわらず、「うちの猫は優しいから」とそれを無視し、安易に同居させてしまう人間の方こそ、野性と命の尊厳に対する想像力を完全に失っている。

猫を本当に愛するとは、その衝動を止めさせることではなく、その衝動を知った上で、環境を整えることである。小動物との間に、鉄壁の物理的隔離を設けること、視覚的にも聴覚的にも分離する工夫を施すこと、そして何より「もしも」が起きたときに命が失われるのは一瞬である、という事実を受け止める覚悟を持つことが必要だ。それがなければ、小動物も猫も、人間の安易な「共生ごっこ」の犠牲者になってしまう。

猫を擬人化し、感情に従って動く存在のように捉える傾向はとても強い。しかし猫は、人間のように「相手が可愛いから襲わない」などという発想は持たない。視覚刺激、動き、匂い――それらの総合情報から判断し、条件が揃えば本能に従って動く。ただそれだけのことである。その冷徹さに驚く必要はない。それこそが命であり、自然の真理なのだから。

たとえば一部の海外の飼い主たちは、「猫がハムスターと仲良くしているように見えたので信じていたが、ある日突然変わった」と記録する。だが、その猫は“変わった”のではない。本質が現れただけである。人間が見ようとしていなかっただけなのだ。数ヶ月、あるいは数年にわたって猫が沈黙していたからといって、猫の中から本能が消えたわけではない。それはただ、発動する理由がなかっただけであり、発動する理由が生まれれば、わずか数秒で「結果」に変わる。それが猫という存在である。

猫を知ることは、自然を知ること。自然を知ることは、無理な支配ではなく、理解と尊重をもって共に生きる姿勢を養うこと。ハムスターやラットを守りたければ、それは猫を否定することではない。むしろ猫の本質を深く受け止め、その上で距離と境界を作ることこそ、猫への最大の愛であり敬意である。猫に理想を押しつけてはいけない。猫に幻想を重ねてはいけない。猫に夢を背負わせてはいけない。

猫は、ただ猫として生きている。その姿があまりにも完璧で、美しく、そして時に冷酷であるがゆえに、人は憧れ、震え、魅了される。それは、すべてを飲み込んだ自然の化身だからである。そしてその真実に向き合ったとき、人間の側もまた、命というものに対して少しだけ誠実になることができる。その誠実さこそが、猫を愛する者に最も求められる資質なのである。猫を猫として見ること。それだけが、猫と生きるための唯一の入り口である。

人間の愛とは時に、対象を理想化し過ぎてしまうがゆえに、その本質をねじ曲げる危険を孕んでいる。猫に対する愛情もまた、可愛さだけを取り出して消費しようとした瞬間に、猫が持つ根源的な生命の姿を損なう行為に変わる。つまり、「猫はハムスターを襲わない」という希望にすがることは、猫という存在の深みを理解することを放棄し、表面だけを愛したふりをしているのに等しい。その態度は、猫を愛しているのではなく、「安心できる自分の世界」に猫をはめ込みたいだけなのである。

猫は道具ではない。猫は映像作品ではない。猫はストーリーの登場人物ではない。猫は、いつでもそこに命の剣を携えたまま、しなやかに生きている。それを愛せるか、それとも目を逸らすか――その分かれ目に立たされているのは、常に人間の方である。猫が豹変するのではない。人間が勝手に、安全で無害で、都合のいい存在だと勘違いしていただけだ。猫は変わらない。ただ、本能を隠さずに生きている。

真の猫愛護とは、この“変わらぬ存在”を全面的に受け入れる態度である。そして、その受け入れの中には当然、「命の危険にさらされる可能性がある小動物とは同居させない」という判断も含まれていなければならない。これは排除ではない。共生のための理解であり、境界線を明確にするという思慮の結果である。その判断をくだすためには、猫のかわいさに酔うだけでは足りない。知ること、見抜くこと、そして予見することが必要なのだ。

だからこそ、猫と暮らすということは、一種の修行である。何もかも思い通りにいかず、呼んでも来ず、機嫌がよくても突然爪が飛び出し、撫でられていたと思えば噛みつかれる。だが、そのすべてを含めて「命」として肯定できるとき、人間は少しだけ猫の世界に近づける。小動物と猫の共存は幻想だ。それを理解した上で、各々の命を守るために環境を完全に分けるという配慮があって初めて、両者が安心して生きていける。

猫の真の魅力は、その矛盾に満ちた完全性にある。やわらかく、鋭く、静かで、激しく、孤独で、同時に愛情深い。その存在を受け止めるということは、命の二面性を抱きしめることに他ならない。そして、その覚悟なくして猫と生きるというのは、猫にとっても、小動物にとっても、不誠実極まりない接し方なのである。

最後に、猫という存在が我々に教えてくれることがあるとすれば、それは「愛とは制御ではなく、理解に基づく敬意である」ということだ。人間の描いた理想の枠には収まらぬ、まっすぐな本能を持つその姿こそが、猫を猫たらしめている。その尊厳に手を加えようとする者は、猫を愛しているのではない。自分の安心の中で猫を飼いたいだけである。猫にとって、それほど侮辱的な態度はない。だからこそ、人間の側が変わらねばならない。猫を変えようとしてはならない。猫は、ただそのままで、すでに完璧なのである。

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