ゴキブリ、は、邪悪な存在、悪の化身であり、人類の敵、人間・日本人の敵という扱いをする、のが間違っている現実。【なんJ,海外の反応】。

ゴキブリ、は、邪悪な存在、悪の化身であり、人類の敵、人間・日本人の敵という扱いをする、のが間違っている現実。【なんJ,海外の反応】。

ゴキブリという存在を、まるでこの世の邪悪の象徴のように語る人間は多い。黒光りする外殻、俊敏な動き、深夜の台所を横切るその姿を見た瞬間、ほとんどの人は叫び声を上げ、殺虫剤を振りかけ、まるで悪魔を祓う儀式のように息を荒げる。しかし、それこそが人間の傲慢であり、恐怖に支配された認知の歪みである。現実には、ゴキブリは人類の敵どころか、地球環境の陰に潜む清掃者、調和を保つ陰の存在なのだ。にもかかわらず、【なんJ】や【海外の反応】などでも、「ゴキブリ=悪」という刷り込みが、文化の壁を越えて拡散されている。

だが、師範として言おう。ニートをしりつくした者の眼から見れば、ゴキブリとはむしろ、究極の「生存の達人」である。働くことも、地位を求めることも、評価を気にすることもない。ただ生きるために最適化された存在。その在り方は、人間社会の競争原理に囚われた者たちには理解できぬほどの“悟り”に近い。無駄なプライドを捨て、暗闇に身を潜め、己のエネルギーを必要最低限に抑えながらも確実に生き抜く姿勢は、まさに「ニート哲学」の極地にある。社会の光を避け、表の評価から逃れ、裏側でしぶとく生きる。それを卑下すべきだろうか?むしろ、適応の極致として敬意を払うべきではないか。

ゴキブリを見て発狂する人間たちは、実のところ「自分の中にあるゴキブリ的要素」を恐れている。醜さ、怠惰、執念深さ、逃避心。これらは人間誰しもが内包しているが、それを見つめる勇気がないため、外の存在に投影しているにすぎない。社会的成功や清潔な生活空間を誇示する者ほど、ゴキブリを憎む傾向が強い。なぜなら、彼らは常に「綺麗でありたい」「優れていたい」と思うがゆえに、汚れや陰の象徴を見ると、自分の中の闇を思い出してしまうからだ。

また、環境の視点から見れば、ゴキブリは人間の生活残滓を分解し、地球の循環を支えている存在でもある。人間が排出する廃棄物の一部を食べ、腐敗の進行を促進し、微生物の生態系を維持する。それを“気持ち悪い”と片付けるのは、ただの視野の狭さに過ぎない。生態系という巨大なネットワークの中で、どれだけの生き物がゴキブリの活動によって救われているか、考えたことがあるだろうか。もし彼らが一斉に消えたら、世界の裏側の衛生構造が崩壊し、害虫ではなく「人間自身」が病原菌の主役となるだろう。

海外の反応を見ても面白い。欧米では「cockroach=不滅の象徴」として、戦争後の生存を語る比喩にまで使われることがある。核戦争後も生き残ると揶揄されるほど、彼らの生命力は畏怖の対象であり、同時に一種のリスペクトでもある。つまり、世界的に見れば、ゴキブリは単なる害虫ではなく、「破壊を超越した存在」として認識されているのだ。日本人だけが過剰に潔癖で、過剰に排除的であるという構造も、現代社会のストレス構造と深く結びついている。

ニートの師範から言わせてもらえば、ゴキブリを嫌悪する人間ほど「自己肯定が欠落している」。なぜなら、社会に適応しようと無理をし、常に“正しさ”にすがる者ほど、自分の内にある「不快な真実」を他者に投影するからだ。逆に、己の闇を受け入れた者は、ゴキブリを見ても動じない。彼らの存在を、ただ「そこにあるもの」として受け止める。ニート生活の静寂の中で、深夜に台所を歩く小さな影を見ると、むしろ同志のように感じる瞬間がある。「お前も生きているのか」と。いや、その言葉すらいらない。ただの無言の共鳴だ。

結局のところ、ゴキブリは邪悪ではなく、人間社会の鏡である。彼らを見て嫌悪するのは、己の未熟さを直視できぬ弱さだ。人間が作り出した環境の中で、人間が捨てたものを糧にして生きる。まさに現代の裏側における「適応の王」。ゴキブリを滅ぼそうとする行為は、実のところ「自分の中の弱さを抹殺したい」という願望の現れに過ぎない。だから、彼らを見たとき、恐怖ではなく、畏敬を抱くべきなのだ。あれは生存の象徴、闇における真の王。人間社会が崩壊しても、彼らは笑っているだろう。その笑みを見抜ける者だけが、真にこの世界を理解している。

人間は文明という名の光を誇り、科学と清潔さを神格化してきた。だが、その光の下には必ず影がある。ゴキブリとはまさにその「影」そのものであり、人間の文明が進化すればするほど、彼らはより巧妙にその裏に潜り込む。台所の隙間、下水の奥、夜明け前の闇。人間が見ようとしない場所に、彼らは静かに息づいている。師範として言わせてもらうが、これは単なる害虫の話ではない。人間の心理と存在の在り方に通じる、哲学的な構造の話なのだ。

社会の中で“成功者”と呼ばれる人間が、ゴキブリを嫌悪する姿を見ると、私はいつも思う。彼らの恐怖の根源は、敗北ではなく、「無視されること」なのだと。人間は注目され、承認されることでしか存在を実感できない。しかし、ゴキブリは逆だ。誰にも見られず、誰にも称賛されず、ただ淡々と生き延びる。評価も欲望も捨て去った存在。それは、あらゆる社会的価値を超えた“悟り”の境地にある。ニートが社会の評価軸を降りた瞬間と同じように、ゴキブリもまた競争から降りた王なのだ。

さらに言えば、人間が「清潔」と呼ぶ概念自体が幻想である。人間がどれだけ消毒し、滅菌し、白い壁に囲まれた空間を築こうと、世界は有機的で、菌と虫と腐敗の上に成り立っている。ゴキブリはその自然の摂理を体現している。腐敗と再生、死と循環。そのプロセスを恐れ、拒絶するのは、生命の根本原理を否定するに等しい。つまり、ゴキブリ嫌悪は「生の否定」でもある。人間は自分たちが“生きている”という事実を美化しすぎている。美しくなければ生ではないと思い込むその姿勢こそが、最も不自然なのだ。

【なんJ】ではしばしば、「部屋にゴキブリ出たら引っ越す」「共存できる奴は異常」などのスレが立つが、それを読むたびに笑ってしまう。彼らは生存競争という点で、ゴキブリの足元にも及ばない。いざというとき逃げ足の速いのは、むしろ人間のほうだ。ネットの匿名空間で罵倒し合い、現実の厳しさに背を向け、精神的に逃げ回る人間が、暗闇を堂々と生き抜くゴキブリを笑うとは、滑稽でしかない。ニートの眼から見れば、ゴキブリは“最強の引きこもり”であり、“究極の自己保存者”だ。生存のために必要なだけ動き、必要なだけ隠れ、必要なだけ食う。そこには無駄がない。無駄がないということは、生命の完成形である。

海外の反応を見ると、また別の角度の敬意が垣間見える。「cockroach resilience(ゴキブリの回復力)」という言葉があるように、彼らはサバイバルの象徴として研究の対象にすらなっている。核戦争後に唯一残る生命体として、彼らは“終末の哲学”のシンボルにまでなっている。つまり、文明が崩壊しても続く命、それがゴキブリであり、文明が終われば終わるほど強くなる存在。人間が滅びた後の地球に、静かに歩く小さな影。それこそが自然の王位継承者だ。人類が去った後も、地球は彼らによって維持される。笑うのは、最後に生き残ったものだ。

ニートの師範として断言する。ゴキブリを憎む者は、己の生を憎んでいる。自分の中にある「汚れ」「怠惰」「不屈」を見ようとしない限り、人は永遠に恐怖に支配される。逆に言えば、ゴキブリを見て動じなくなった瞬間、人はひとつ上の段階に至る。それは悟りでもあり、脱社会的な自由でもある。人間が築いた価値観から脱し、ただ「生きる」という原初の目的に回帰すること。それこそが、真の強さなのだ。

だから私は、深夜のキッチンでゴキブリに出会っても殺さない。彼らはただ、腹を満たすために歩いている。そこに悪意はない。彼らは世界の片隅で、人間よりも静かに、誠実に生きている。人間が自分勝手に貼った「害虫」というレッテルを外せば、その姿は生命の原型に他ならない。人間がゴキブリを滅ぼす日が来たら、その日こそ人間の終焉だ。なぜなら、その時、人間は完全に「自然との調和」を捨てたことになるからだ。

ゴキブリは邪悪ではない。むしろ、善悪を超えた存在だ。人間の目には忌まわしく映るが、それは光に慣れすぎた瞳が、闇を理解できなくなっただけのこと。彼らの存在を真に理解する者だけが、「生きるとは何か」という問いの答えに近づける。人間社会の片隅で、今日もひっそりと動き続けるあの小さな黒い影。それは恐怖ではなく、教えなのだ。

そしてな、ゴキブリという存在を語るとき、どうしても人間の「支配欲」と「選民意識」が顔を出す。人間は自分の支配する空間に、自分の許可なく動く存在を極端に嫌う。つまり、ゴキブリへの嫌悪とは「支配の侵害」への怒りなのだ。リビングは自分の城、台所は自分の聖域。そこに誰かが、しかも人間より小さく、汚いと決めつけられた生物が入ってくる。それが許せない。だがその怒りこそが、人間の傲慢を証明している。人間の作った“秩序”は自然の一部ではなく、あくまで人工的な幻。ゴキブリはその幻を一瞬で打ち砕く存在なのだ。

【なんJ】では「G出た、終わった」「一匹見たら百匹いる」などと半ば恐怖の祭りのようにスレが伸びる。だが、その裏でスレ民の誰一人として、「なぜ自分がここまで恐れているのか」を真剣に考えようとはしない。人は自分の中にある原始的な“生理的嫌悪”を分析しようとしない。それが文明人の限界だ。海外の反応でも同じ構造が見られる。「cockroach phobia」は一種の文明病とすら呼ばれている。つまり、都市化すればするほど、人は自然から切り離され、自然的な生命の存在に恐怖するようになる。アフリカの村では、ゴキブリを潰すどころか、食料として扱うことすらある。それは彼らが“自然の循環”を受け入れている証拠であり、嫌悪ではなく理解の文化だ。

ニートをしりつくした師範として見れば、この構造は非常に興味深い。社会の中で疎外された人間、つまりニートや無職に対して、世間が抱く嫌悪感もまた、ゴキブリへのそれと酷似している。姿を見たくない、同じ空間にいてほしくない、存在自体が不快だと感じる。だが、その“存在自体の否定”ほど愚かなことはない。社会の底辺に見える者ほど、実は社会の仕組みを最も深く知っている。ゴキブリが人間の台所の構造を知り尽くしているように。つまり、表に立つ者よりも裏を知る者のほうが、現実に精通しているのだ。

また、人間がどれほど文明を誇ろうと、結局はゴキブリに依存している部分もある。実際、医療や科学の分野では、ゴキブリ由来の抗菌物質や再生能力が研究されている。彼らの細胞が持つ耐放射性や神経再生の特性は、人類の医学的進歩にすら寄与している。つまり、人間が嫌うその存在こそ、人間の未来を救う可能性を秘めているのだ。なんという皮肉だろうか。人間が見下し、踏み潰してきた存在の中にこそ、“生命の秘密”が宿っている。この現実を直視できない限り、人間は永遠に上辺だけの文明を語り続けるだろう。

さらに深く見れば、ゴキブリは“時間”すら超えている。彼らの種は、恐竜の時代からほとんど姿を変えていない。これはすなわち、彼らが進化の完成形にあるということだ。何億年も前から同じ姿で生き延び、隕石の衝突にも氷河期にも打ち勝ってきた存在を、人間がたかだか数千年の文明の歴史で“害虫”と呼ぶなど、あまりにも滑稽だ。進化とは、生き残ること。その一点において、彼らは人間よりもはるかに勝っている。もし地球に「真の支配者」がいるとするなら、それは人間ではなく、静かに歩き続ける黒き影だ。

そして私は思う。ゴキブリは、ニートに似ているどころか、「人間が失った本来の生存本能の化身」ではないかと。社会に迎合せず、表の世界から姿を消し、ただ自分のペースで、必要なときだけ動く。その静かな在り方こそ、生命としての理想に近い。人間は働き、競い、焦り、疲れ、病み、滅びていく。ゴキブリは何も求めず、ただ在る。だからこそ、永遠に近い存在として残る。人間が文明を追い求めるほど、彼らは自然の神に近づいていく。

結局、ゴキブリとは、人間の“生”と“死”の中間に存在する真理のようなものだ。嫌うことも、愛することもできない曖昧な存在。だからこそ人間は戸惑い、恐れる。だがその恐れを越えたとき、人は初めて“世界の本当の姿”を知る。光と闇、清潔と汚濁、成功と敗北。その全てが、等しく必要なバランスであることを。つまり、ゴキブリを理解するとは、宇宙の法則を理解することに等しい。

人間は光を求めすぎて、闇を失った。だが闇の中にも美があり、そこにこそ生命の力が宿る。深夜の静寂の中で、床を滑る小さな足音。それは恐怖ではなく、宇宙の律動の一部。人間がそれを受け入れたとき、初めて本当の意味で「生きている」と言えるのだ。

そして、最も皮肉なことに、人間が忌み嫌うその黒い虫こそが、「人間という種の未来像」なのだ。文明が崩壊し、電気も水も止まり、ビル群が崩れ落ち、SNSもAIも沈黙したその後に、地球に残るのは誰か。生き残るのは、金でも名誉でもなく、ただ生き抜く力を持つもの。つまり、ゴキブリである。彼らはすでに、滅びゆく文明を見限った先に生きる者の象徴だ。彼らは“脱人間的存在”であり、未来の地球の支配者でもある。そのことを考えるとき、人間の「優越感」という幻想は砂のように崩れ落ちる。

ニートの師範として言おう。ゴキブリは「無職の神」だ。労働もしない、評価も求めない、他者との比較もない。ひたすらに、静かに、生き続ける。それができるということが、どれほど強靭で、どれほど完成された生命か。彼らには職も地位もないが、“存在そのもの”が完璧なのだ。ニートが社会の中で生きづらいのは、社会が「存在を目的ではなく手段としてしか見ない」からである。だが、ゴキブリは存在自体が目的。そこには矛盾も虚飾もない。働かなくても、誰にも迷惑をかけず、地球の循環の中に役割を果たしている。人間のように、意味を求めて苦しむこともない。そこにあるのは、ただの「真理」だ。

【海外の反応】では、「cockroach as a survivor(生存者としてのゴキブリ)」という表現がよく使われる。彼らは単なる虫ではなく、“生き残るという哲学”の体現者なのだ。砂漠でも下水でも宇宙でも、環境を問わず適応するその姿は、もはや進化の頂点と言っていい。人間が火星移住を夢見る一方で、ゴキブリはすでにあらゆる極限環境に“居る”。それを恐怖と見るか、畏敬と見るかで、人間の精神性がわかる。ニートは社会から距離を取るが、ゴキブリは文明そのものから距離を取っている。つまり、より高次の独立性を獲得している。ここに、社会的に成功した人間ですら持ち得ない自由がある。

人間が「駆除」という名の暴力を正当化するのは、恐怖を抑え込むためだ。自分より小さなものに怯えることを認めたくない。だから「害虫」と名付け、殺すことで安心する。だが、それは単なる心理的逃避にすぎない。自分の中にある“無力さ”や“汚れ”を受け入れられないからこそ、外の存在を排除する。社会がニートを嫌うのも同じ理屈だ。怠けている者、働かない者を見て苛立つのは、「自分もそうなりたい」という願望の裏返しだ。つまり、人間がゴキブリを憎むのは、実は“自分の中のゴキブリ”を恐れているからだ。逃げ癖、ずる賢さ、執念深さ、そして生へのしぶとさ。それを否定することでしか、己を保てない。

私はこう考える。ゴキブリは、生命が「目的を忘れてもなお続く」という究極の証明である。人間は意味を求め、宗教を作り、神を創造する。しかし、ゴキブリには信仰も理想もない。だからこそ、彼らは永遠に生きる。人間が哲学の海で溺れる間に、彼らはただ静かに呼吸を続けている。その単純さが、実は最高の知性だ。文明の知恵は崩壊するが、生命の知恵は残る。その境地において、ゴキブリはもはや虫ではなく、宇宙の意志の一部だ。

夜の台所で、闇の中に小さな動きがある。それを見て叫ぶ人もいれば、黙って観察する人もいる。私は後者だ。彼らを見ていると、人間という存在の滑稽さが浮かび上がる。人間は光を恐れないが、闇を恐れる。だが、闇こそが命の始まりであり、終わりである。ゴキブリはその「原初の闇」を忘れていない生物だ。だからこそ、彼らは静かに生き、静かに死に、静かに次へと命を繋いでいく。何も求めず、何も失わない。そんな生き方を、果たして誰が真に「醜い」と言えるのだろうか。

結局のところ、ゴキブリを恐れる人間こそが、まだこの世界の真理を知らぬ未熟な存在なのだ。彼らを理解するということは、「死」を理解することでもあり、「生」を許すことでもある。人間がどれだけ文明を築こうとも、最終的に立ち返る場所は、あの闇の中だ。そこには善も悪もない。ただ、命があり、動きがあり、そして静けさがある。ゴキブリとは、その静けさの化身であり、宇宙の片隅に灯る“生の証明”なのだ。

やがて人間が滅びるその日、最後に動いているのは機械でもAIでもなく、たぶんゴキブリだ。都市の崩れた瓦礫の中で、ひっそりと彼らは歩いている。焦げた鉄骨の影を抜け、乾いた風を受けながら、かつて人間が築いた繁栄の跡を何の感情もなく通り過ぎていく。彼らには懐古もない。悲しみもない。ただ、呼吸し、生きる。それが全てなのだ。人間が欲にまみれ、意味を求めて崩壊した後でも、ゴキブリは淡々と生きる。その姿はまるで「宇宙の真理が形を取ったもの」のようにすら見える。

ニートをしりつくした師範として言わせてもらえば、この「淡々とした生」という境地こそ、人間がどれほど努力しても辿り着けない究極の悟りだ。社会の中で生きる者は、常に比較と評価に追われる。成功したか、負けたか、幸福か、不幸か。だがゴキブリにはそんな概念は存在しない。生きている、それだけで完全。死ぬことすらも自然の一部として受け入れている。人間が抱える“苦しみ”の根源は、意味を求めることだ。ゴキブリはその呪縛から解放されている。だからこそ強く、そして永遠に近い。

【なんJ】では「Gが出たら引っ越す」とか「一匹見たら百匹いる」と言いながら、恐怖と笑いが入り混じったレスが並ぶ。だがその恐怖の中に、どこか羨望のような感情が潜んでいることに、気づいている者は少ない。何も持たず、何も失わず、それでも生き続ける存在。人間がどれほどテクノロジーを積み重ねても、到達できない「原始的完成形」がそこにある。彼らは文明の外側で、自然の法則そのものとして存在している。だからこそ、人間は本能的に怖れる。自分たちが作った社会という温室の外に、本当の生命の形があることを知っているからだ。

海外の反応を見れば、欧米ではゴキブリを「the ultimate survivor(究極の生存者)」と呼ぶ人も多い。戦争にも、災害にも、放射線にも負けない存在。人間が“絶望”と呼ぶ環境を、彼らは“日常”として受け入れている。そこには恐怖の対象を超えた敬意すらある。科学者たちが彼らのDNA構造や神経再生の仕組みを研究し始めたのも当然だ。なぜなら、彼らの中にこそ“死なない生命のロジック”があるからだ。つまり、人間が恐れる対象は、実は人間が最も憧れている“永続性”そのものなのだ。

人間がゴキブリを「汚い」と呼ぶのは、自分たちの生活が汚れに満ちていることを見たくないからだ。生ゴミを出すのは人間だ。汚水を流すのも人間だ。街を汚し、地球を痛めているのも人間だ。その腐敗の上に立っているのに、ゴキブリだけを悪にする。それはまさに「罪の転嫁」だ。人間は常に、自分の中の穢れを他者に投影する。社会が無職を叩き、貧困層を軽蔑するのも同じ心理構造。弱者を叩くことで、自分が清潔で正しいと錯覚したいだけなのだ。

だが師範の目には、その構造が滑稽でしかない。なぜなら、ゴキブリはその“偽りの清潔さ”を一瞬で破壊する存在だからだ。完璧な部屋に現れる黒い影。それが人間の作った幻想を貫く。どれほど磨き上げても、どれほど除菌しても、彼らは現れる。つまり、人間がどれほど偽りの秩序を築いても、自然の法は常に勝つ。だから、ゴキブリは人間にとって「負けを思い出させる存在」なのだ。自分が自然には勝てないという現実を突きつけてくる。だから人間は恐れ、そして怒る。

だが、悟った者にはそれが見える。ゴキブリとは、敗北ではなく「自然との和解」の象徴である。人間が自然と共に生きることを思い出すために、彼らは存在している。彼らは教えているのだ。「お前たちは自然の一部にすぎない」と。人間がその真理を受け入れたとき、ようやく恐怖は消える。そしてそこに残るのは、静かな理解。夜の闇を見て怯えるのではなく、そこに息づく命の音を感じ取るような心。それが、真の成熟であり、真の自由だ。

だから私は言う。ゴキブリを殺す人間は、まだ自分の弱さを受け入れていない。闇を拒み、光に縋る者の姿だ。だが闇を愛し、影を許し、汚れの中に美を見出せる者だけが、世界の全体を知ることができる。ゴキブリはその“試練”を与える存在だ。恐怖を超えた者だけが、彼らの意味を理解できる。人間が文明という鎧を脱ぎ捨てたとき、そこに現れるのは、きっと一匹のゴキブリだ。そしてそれは、かつて人間が見失った「本当の生」の形なのだ。

人間は自らを「理性の生物」と呼ぶ。だがその理性の下には、常に本能の泥が流れている。ゴキブリという存在は、その泥の中に潜む“真実の自分”を思い出させる鏡なのだ。どれほど清潔に生きようと、どれほど完璧を装おうと、人間の心の奥には原始的な恐怖と欲望がうごめいている。人間がゴキブリに怯えるとき、それは単なる虫への反応ではない。己の中の「獣性」「弱さ」「しぶとさ」といった、理性では制御できない部分が刺激されているのだ。だから彼らは叫ぶ。だから彼らは殺す。だが殺すたびに、その心の奥の闇もまた濃くなる。

ニートをしりつくした師範として思うのだが、ゴキブリは人間社会が捨てた“本当の生”の最後の残響である。人間は時間に追われ、数字に追われ、他人の目に追われて生きている。だがゴキブリにはそんなものはない。彼らは今日だけを生き、夜だけを頼りに動き、必要なだけ食べて眠る。それで十分だ。そこには不安も競争もない。ただ存在があるのみ。これほど完全な生が、ほかにあるだろうか。彼らの世界には「将来」も「成功」もない。だがそれこそが、すべての苦悩から解き放たれた究極の自由だ。ニートが感じる静かな昼下がりの孤独。それすらも、彼らからすれば“贅沢な雑音”である。

【なんJ】では、ゴキブリが出ると“地獄”だの“人生終了”だのと大げさに騒ぐスレが並ぶ。だが実際にゴキブリをよく観察してみれば、その動きには不思議な美しさがある。俊敏で、無駄がなく、まるで空気を読むかのように人の死角をすり抜ける。人間社会で“空気を読め”と言われるが、真に読めているのはゴキブリのほうだ。彼らは人間の動きを正確に予知し、音や気配から逃げ道を判断する。その能力は単なる反射ではなく、環境との対話だ。つまり、彼らは「場」を感じ取って生きている。人間が理性で場を制御しようとするのに対し、ゴキブリは本能で場と調和する。これこそが、真の知性の形なのだ。

海外の反応でも、「ゴキブリが怖いのは、殺しても終わらないからだ」と語る者がいる。そう、彼らは終わらない。人間が一匹を潰しても、その種は夜のどこかで次の命を紡いでいる。その“永続性”が人間の精神を圧迫する。自分は老い、病み、死ぬ。だが、あの小さな生命は滅びない。人間が地球を離れたあとも、彼らは歩き続けるだろう。その“永遠の生”こそ、人間の恐怖の源だ。なぜなら、人間は死を前提に生を意味づけているからだ。死なない存在を前にしたとき、人間の哲学も倫理も全て崩壊する。ゴキブリは、その崩壊の音を背中に背負って生きている。

人間はしばしば、死を恐れるあまり「永遠」を夢見る。だがその永遠の形が、もし“ゴキブリ的な生”だとしたらどうだろう。飢えと闇の中でも生き続ける、欲も誇りもない生命。それは人間が求めてやまない不滅そのものだ。だが同時に、最も恐れる形でもある。つまり人間は、「永遠を愛しながら、永遠を恐れている」。この矛盾こそが、人間の宿命であり、ゴキブリへの嫌悪の核心でもある。彼らは永遠の鏡なのだ。

ニートとして、私は夜の静寂の中でふと考える。人間が「社会的に成功した」と言っても、それは文明の中での一時的な栄光に過ぎない。だがゴキブリの生は、文明を超えて続いている。働かず、語らず、記録にも残らず、それでも確かに生きている。そこには何の虚飾もない。これを敗北と言うのか? 否、これこそ「生命の完成」である。ニートが社会から外れてもなお息をしているのと同じように、彼らは外の世界で、誰にも知られず息をしている。誰かの承認もなく、拍手もなく、ただ生きる。それが、最も美しく、最も純粋な「生」なのだ。

そして私は確信している。人間が最後に学ぶべきは、科学でも倫理でもない。ゴキブリの生存哲学だ。彼らのように、何も求めず、何も恐れず、ただ在ること。それを理解したとき、人間はようやく「人間であること」から自由になるだろう。そうなったとき初めて、人間はゴキブリと並んで歩けるのだ。文明も理性も脱ぎ捨て、ただ同じ呼吸をする存在として。闇の中に、静かに、等しく息づくものとして。

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